「もう先生のとこには頼まない」と言われる前に
——困難家族・カスハラ対応を個人の我慢でなく仕組みで受け止める5つの実践
「夜中に何度も電話がかかってきて、出ないと怒鳴られる」「説明したことを『聞いていない』と言われ、スタッフが土下座まがいの謝罪を求められた」——訪問診療クリニックを経営する院長先生から、こうした声をよく耳にします。
在宅医療は、患者さんやご家族の生活の場に入っていく医療です。それだけ距離が近く、信頼が生まれやすい一方で、ときに過剰な要求や理不尽な怒りが、現場のスタッフに直接ぶつけられます。そして多くのクリニックで、その対応は「その場にいた人の我慢」と「院長の頭の下げ方」だけで処理されてしまっているのです。
今日お伝えしたいのは、困難家族やカスタマーハラスメント(カスハラ)への対応を、個人の精神力やセンスに任せるのをやめ、誰が受けても同じ線引きで守れる仕組みに変える、という話です。これは患者さんを切り捨てる話ではありません。むしろ、長く誠実に在宅医療を続けるために、スタッフと自院を守る仕組みづくりです。
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なぜ「個人の我慢」で処理されてしまうのか
困難な対応がスタッフ個人に抱え込まれてしまう背景には、主に3つの理由があります。
1つ目は、医療職特有の「断ってはいけない」という思い込みです。患者さんのためなら多少の無理は受け止めるべきだ——その善意が、際限のない要求の入口になってしまいます。どこまでが正当な要望で、どこからが過剰なのか。その線引きを持たないまま現場に立つと、すべてを受け止めるしかなくなります。
2つ目は、対応がその日たまたま電話を取った人、訪問に入った人に丸投げされていることです。ベテランは受け流せても、若いスタッフは深く傷つく。同じ理不尽でも、誰が受けるかで負担がまるで違う。これは仕組みがないということです。
3つ目は、院長自身が「自分が謝れば収まる」と、その場しのぎで火消しをしてしまうことです。院長が頭を下げて一度収まっても、記録も基準も残らなければ、次に同じことが起きたとき、また誰かが一人で受け止めることになります。対応が組織の財産にならず、消えていくのです。
「困った人」ではなく「困っている背景」を見る
仕組みの話に入る前に、ひとつ押さえておきたい視点があります。それは、過剰な要求や怒りの背景には、たいてい強い不安や疲弊があるということです。
眠れないほどの介護疲れ、看取りへの恐れ、医療への不信、家族間の意見の対立——そうした行き場のない感情が、いちばん近くにいる訪問診療のスタッフに向かうことは少なくありません。だからこそ、最初から「クレーマー」と決めつけるのではなく、まず背景を見る姿勢が出発点になります。
ただし、これは何でも我慢するという意味ではありません。背景に寄り添うことと、理不尽な言動から身を守ることは、両立させなければならない。そのために必要なのが、感情ではなく基準で動ける仕組みなのです。
個人の我慢を仕組みに変える5つの実践
当院が試行錯誤の末に整えた、困難家族・カスハラ対応の型を5つに整理します。
1. 「ここから先は対応しない」線引きを、紙にして全員で共有する
まず決めるべきは、自院として受け入れられないことの線引きです。たとえば、大声で怒鳴る・人格を否定する言葉・身体的な威圧・正当な理由のない深夜の頻回連絡・金品の要求——こうした言動は対応の対象外とする、と明文化します。線引きが紙になっていれば、スタッフは「これは我慢すべきことではない」と判断でき、院長も迷いなく組織として対応できます。基準がないから、人は「自分の受け止め方が悪いのかも」と抱え込むのです。
2. 困難な対応は「一人で受けない」当番とエスカレーションを決める
理不尽な要求や怒りは、その場で一人が抱え込んだ瞬間に重くなります。そこで、対応が難しいと感じたら誰につなぐかをあらかじめ決めておきます。日中は管理者、夜間はオンコール担当、最終的には院長——というように、つなぐ先を明確にする。「自分で解決しなくていい、つないでいい」と決まっているだけで、現場の心理的な負担は大きく変わります。一人で受けないことを、根性論ではなくルールにするのです。
3. 言われたこと・対応したことを、必ず記録に残す
どんな連絡があり、誰が、いつ、何を伝えたか。これを決まった様式で記録します。記録は3つの意味で自院を守ります。1つは、言った言わないのトラブルを防ぐこと。2つは、対応が個人の記憶でなくチームの情報になり、次に誰が受けても経緯を踏まえて話せること。3つは、万一エスカレートしたときに、事実経過を示せる証拠になることです。口頭での申し送りだけでは、対応はいつまでも属人的なままです。
4. 「初期対応の型」を決めて、感情の応酬を避ける
怒りや要求を受けたとき、その場で言い返したり、安易に約束したりすると、事態はこじれます。そこで初期対応の型を決めておきます。まず相手の話を最後まで聞く、事実と要望を確認して復唱する、その場で判断せず「確認して折り返します」と時間を区切る——この順番です。感情に感情で返すのではなく、決まった手順で受けることで、現場は落ち着いて対応でき、相手の興奮も鎮まりやすくなります。
5. 受けたスタッフを「責めない・一人にしない」ケアの場をつくる
仕組みの最後は、対応したスタッフのケアです。理不尽な言動を受けた人を「あなたの対応が悪かったのでは」と振り返るだけでは、誰も声を上げられなくなります。対応後に短くでも話を聞く場を持ち、「よく受け止めてくれた」とまず労う。そのうえで、組織としてどう対応するかを一緒に決める。スタッフが「守ってもらえる」と感じられて初めて、困難な対応を一人で抱え込まずに報告できるようになります。
自院での気づき
正直にお話しすると、当院もかつては、困難な対応を「代表してひとりの医師が頭を下げれば済む」と考えていました。あるご家族から、訪問のたびに長時間の苦情を受け、スタッフが疲弊していたことがあります。私はその都度謝り、話を聴きに訪問し、要求をのみ、なんとかその場を収めていました。
ところが、対応していた医師が、ある日ぽつりと「もう、あの患者さんの訪問に行くのがつらい」と漏らしたのです。火消しをしていたつもりが、現場の医師は毎回その緊張に晒され、限界に近づいていた。私のその場しのぎは、スタッフを守るどころか、見えないところで追い詰めていたのです。
まとめ——スタッフを守ることは、患者さんを守ること
困難家族やカスハラへの対応を個人の我慢に委ねている限り、傷つくのはいつも現場のスタッフであり、やがて疲弊した人から辞めていきます。人が辞めれば、いちばん割を食うのは、誠実に在宅医療を必要としている患者さんです。
受け入れられない言動の線引きを紙にする、一人で受けずにつなぐ、対応を記録に残す、初期対応の型を決める、受けたスタッフをケアする——この5つを整えるだけで、同じ理不尽が起きても、抱え込む人はいなくなります。
今日からできる最初の一歩は、自院のスタッフに「これまで対応に困った一番つらかったケースは?」と聞いてみることです。そこで出てきた話が、あなたのクリニックの線引きをつくる、最初の材料になります。
戦わない在宅医療——それは、患者さんやご家族と対立することではなく、理不尽な要求とは毅然と線を引きながら、本当に支えを必要とする人に、長く誠実に向き合い続けられる現場を守ることでもあります。
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院長先生の「自分が頭を下げて収めていたつもりが、見えないところでスタッフを追い詰めていた」というリアルな気づきに、非常に強い説得力を感じます。
医療職の善意や我慢に依存した対応は、スタッフの離職を招くだけでなく、最終的には地域の医療供給体制そのものを崩壊させてしまいます。受け入れられない一線を「紙(システム)にして共有する」という組織防衛の手法は、持続可能なクリニック経営において不可欠なガバナンスだと深く共感いたしました。